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明治より130余年続く老舗写真館。

130余年前...カメラというものが人々の手にはいることがなかった時代。
そんな時代にSEKOは誕生し、魔術師として人々を楽しませ、感動させていた...。

SEKOの歴史

SEKOのあゆみ

明治8年
岐阜市今泉(米屋町)にて瀬古安太郎は瀬古写真館を開業する。瀬古家は岐阜県本巣郡上の保村の出身にて、百姓より一念発起し兄弟それぞれ協力し手助けして写真術(日本に伝来して間もない頃)を勉強した、そして長男は高山に次男は岐阜に三男は名古屋に将又兄弟は福井、犬山とそれぞれ開業した当時は日本の中部に於ける写真一家だった。
明治23年
濃尾大震災が発生し、初代瀬古安太郎は大きな四つ切暗箱と三脚を三人がかりでかついで野を越え山を越え災害と被害の恐怖にもめげず、有名な根尾の断層の写真を数十枚に撮影記録した。
その記録は日本地震学会研究資料としても有名な処となっている。

初代 瀬古安太郎

明治25年
県下各学校に置かれる明治天皇の御写真の県下分の御写真複製の栄を当館に御下命に相成った。
明治38年
日清日露の戦勝にて世界の五大国に飛躍する。
営業写真館は軍国主義の台頭と共に軍隊関係や出従家族その他写真需要が多くなり、二代目安太郎(真二)は軍隊出兵と共に当時のロシアに渡りハバロスクやニコリスクに数年滞在をし写真の営業を現地でした。
大正10年
岐阜の各務ヶ原にはフランス人が始めて飛行機を紹介し、当時サルムソンやニューポール等という小飛行機は甲式四型戦闘機となり、飛行一等隊や二等隊に二代目は出入りして営業をした。
大正12年
安太郎一世は88才にて没し、二代目真二は安太郎を襲名し、写真需要の比較的多い時に営業を続けた。
大正14年
洋館コンクリートタイル三階建て一部四階に改造建築する。
たまたま講演の為来岐の京都塩原学園(私立)の校長に見込まれ関西の方面の学校アルバムを手がける。
又、次第に軍部の仕事は激増し、歩兵第68隊や飛行一隊の門鑑を拝受し出入御用商人となる。
二世安太郎は軍人に憧れ、隊長や大隊長等の官舎代用の貸家を建て、それ等の方々をお入れした。そしてそれは戦争末期迄続いた。

二代目 瀬古安太郎

昭和5年
合資会社瀬古写真館として資本金5万円の同族法人となる。その頃岐阜の氏神容伊奈波神社の神前結婚式は次第に多くなりお客の御用命にて出向し次第に実績は神社専属の足掛りとなる。
昭和8年
美濃太田及び北一色に支店を開設する。
昭和10年
岐阜市写真師会長及び引受け就任以後歴任する。
昭和24年
社会的信用を得て、岐阜信用金庫理事となる。
昭和13年
その他町内会長及び輪之内用排水委員等一部の公職にも参与する。又、川崎航空機は大正の創立当初より出入し、歴代の工場長宅を引受けお貸しした。
第二次世界大戦中は有名な東条英機大将の弟東条寿氏が工場長にて社宅は瀬古の家をお貸ししていた。
軍需生産は次第にエスカレートし戦争たけなわの頃は御激励にこられた各皇族や軍部政府の首脳の方々を玄関にて撮影した。
その時代としてはその様な感激は珍しかった。
昭和15年
従業員のマグネシュームの失火にて火災、本館を焼失する。
三代目三郎は北京に出征中の時だった。
瀬古デブで通った二世安太郎も数々の苦労で見る影も無くやせ細った。
昭和23年
旧店舗の跡に15坪のバラックを建て三代目が再出発する。
そして一般需要の開拓は困難を極める中にも何か新しき再出発の希望と生まれ変わったようなファイトで最善をつくした。
昭和26年
営々と築き上げたモノも、仕事も、終戦のショックと共に消え、焼失し、以後新円切り替えや財産税等にて総てが駄目になり、二世安太郎は自分のしょうがいは之で終わったと66歳にて最後を飾った。
亡くなったその日は三代目の木造三階建てのスタジオ建設の建前の日だった。
三代目の当主のれんは先祖より頂いたが、大きな希望は持てる訳ではなかった。
三代目の兄弟秀夫は名古屋に出て瀬古写真館を作った。現在東京まで業績を延ばし、名古屋写真師会会長に選ばれ勤む。

三代目 瀬古三郎

昭和32年
専属写真スタジオを設け、その他学校卒業アルバム、一般スタジオ写真等安定した写真撮影業務に至ることが出来る様になった。
昭和50年
創業100年を記念して、清水建設株式会社名古屋支店の設計施工にてニュースタジオの落成を見るに至った。

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